つらつら思ったコト 一覧

月曜日は思わずニヤリとしつつ、桑田&ユースケコンビの「音楽寅さん」復活第1回を見たわけだが、その冒頭の「桑田追悼」の演出がネットで批判続出とのニュースを見て、なんだかなあ。

桑田佳祐「追悼」特別番組――。フジテレビが、サザンオールスターズ桑田さんの新番組でこんなドッキリを仕掛けた。「やり過ぎでは」との声が出る一方、不自然な設定からネタだと分かると擁護する声もあり、論議になっている。

バラエティというかTV見慣れていない人が多すぎるよなあ。
あんなのわしは見た瞬間からネタだと1mmも疑わなかったのだが、などと言ってみてもむなしいばかり。
いや、そりゃ信じちゃう人はいると思うよ、それは否定しない。
それは昔からそうだったと思う。
だけど昔と違うのは、ネット社会、と風呂敷を広げるつもりもないが、それがすぐ騒動として発展しやすくなっているということ。
一部で騒いでるだけなのに、それが世論として通っちゃったりする傾向も見られる。
ネットは即時性があるから過熱しやすいしねえ。

もひとつ先週金曜日の爆問MCの「サプライズ」の終わりぐらいをちょうど見ていたんだけども、「視聴者投票システム」を使った企画でNON STYLEが出てきて、「NON STYLEがM-1に優勝したのは?」「A 妥当 B 意外」とか「NON STYLEとオードリー面白いのはどっち?」などというある種腫れ物に触るようなアンケート結果を目の前で見せられていた。
ま、本人達じゃなくても悲鳴をあげたくなるような結果がそこには出たわけだが、NON STYLEに関しては、もうその部分をイジってもいいということになりつつあるのだろうか。
そういうキャラを身にまとうというのはM-1王者としてはイバラの道なんじゃないのか。
薄々はみんなそう思っているかもしれないのだが、「サプライズ」ごときの番組製作側がそんな役割を演者に押しつけてしまっていいのかね。
ま、NON STYLEは実力でひとつひとつそれらをはねのけていくのか、おいしく処理することを学ぶのか選択を迫られているわけなのだが。

両方のことから感じたことってのは、即反応が得られる仕組みってのは、もの作りという立場にとって果たしてどうなのかということ。
曖昧な部分、というか、余白の部分が許されない方向にどんどん進んでいくんではないかね。
制作者には手応えを知りたいという欲求があるに違いないんだけれど、ある程度ぼんやりした部分を残しておかないと、手架せ足架せという話になるよねえ。

なんだか薄ぼんやりとした話でもうしわけない。うまくまとめられんかったー。

識者によれば

ファンからの批判はある程度予測できたはずだが、なぜ、中国版では改名したのだろうか?
 「中国で孫悟空といえば、『西遊記』の主人公の孫悟空のイメージ。映画の主人公と混同するのを恐れたのではないでしょうか」(中国文化に詳しいライター)

いやいやいやいや。混同っていうか。
そんなコメントは別に「中国文化に詳し」くなくても云えると思うが。

これでいいのだ。

赤塚不二夫の葬儀が本日行われたという。
タモリが弔辞を読むと聞いて、そりゃそうだろうと思い、そうでなくてはと深く納得した。
最近の若い人にはあまりピンとこないのかもしれないが、タモリといえば何はなくとも赤塚不二夫である。
密接な関わり合いがあるという言葉では尽くせないものがある。
では、どんな言葉で説明すればよいのか。
その答はタモリ自ら、今日の弔辞の締めの言葉で語っている。

弔辞を期待して待つという言い方は大変おかしなものであるとは思うのだが、それでもタモリがどんな言葉を述べるのか、今日の弔辞は興味深かった。
帰ってきて早速youtubeで探して見た。

それはあまりにも素晴らしいものだった。

声のトーン、抑揚、スピード、そして内容。
どうやら実は白紙を手にしてのことだったというが、それが逆になんだか腑に落ちるような、ひとつひとつの言葉がしっかり伝わってくるようなそんな弔辞だった。
ラストの言葉には思わず落涙した。


赤塚不二夫の作品は、僕の幼少の際の人格形成期になによりも多大な影響を与えている筈である。
あまりにも大きすぎて自分でもどれぐらい影響を受けたか、はっきり把握できていないほどだ。
だから、赤塚不二夫への思いは、気が向いたらゆっくり書き継いでいこうと思う。

おそ松くん、ア太郎、バカボン、レッツラゴンはもちろんのこと、少年フライデー、風のカラッペ、はくち小五郎なんかも思い出深い。
こどもの頃は何度も読み返したものだが、また読み返したいなあ。
7万円かあ。今は買えないけど、いつかは。

最近NHKが思い出したように特集なんかやったりしてたから、なんとなくイヤな予感はしてたんだよなあ。
そのときはうっかり見逃したのだけども、後にここで見ることができた。
また後でもう一度見よう。

まあ、休めや。

数日前にそれまでの文脈に対していささか唐突に、「職を賭して」なんて言葉が出てきた時に、あ、このおっさんやっと辞める気やなとはなんとなく思っていた。
とにかくせっせと逃げ道を作り始めたという印象。
もちろんまさかそれが今日とは思ってもみなかったわけだが。

誰もが口を揃えて「タイミングがおかしい」と言う。
明らかにそうなのだ。今であるはずがない、意味がわからない、とそう思う。
もちろんご本人もその周囲もそんなことは百も承知で、その上でこうせざるを得なかったというところに、心の深い闇のようなものを、ギリギリ感を感じる。
もうそれ以上、だったのであろう。
わかってるけどダメ、だったのだ。
朝青龍のハナシといい、そうした空気にまだみなさん不寛容なのね。
そりゃまあ、そうだとは思う。
一国の首相であり、国技の頂点であるわけで、その背にかかっている荷はあまりにも重い。
みんなからかけられている期待(諦めであるにしても)は、尋常でないのである。
だからそんなことを言ってもらっては(やってもらっては)困る、とみんな思うのだ。
寛容にはしていられない。
病気、と一言で片付けるには済まされない状況なのだろう。
でもねー、と思う。
がんばらなきゃいけない人ががんばれなくなっちゃったらとりあえずまず休むしかないんだろうね。
そうしないと負のスパイラルに本人もその周囲も巻き込まれることになる。
そんな気が非常に強くする今日この頃なのです。

恐ろしい。

ちょっとちょっと、今日の警察捜査記録winny流出事件って結構エラいことだと思うけど、あまり大きく扱われてないね。
ちらちらネット見てると、ヤクザの情婦リストに芸能人の名前が、とか、婦女暴行事件の被害者の個人情報と事件の詳細な記録が、とか、ちょっとヤバすぎて顔色を失うようなことが続々。
つい先日もwinny流出に責任を感じ自死した教師が出たが、取り返しがつかないといえば、これほど取り返しがつかないこともないからなあ。
途方に暮れる、を通り越した事態に現場(警察)ではなってるのではないか。
いやあ....。

いっせーのー問題

いや、驚いた。
昨日のエントリーで言い間違いなどと断定していたが、ぬめちさんのコメントによると、「いっせーのーれ」も「いっせーのーせ」も「アリ」らしい。
しかも「いっせーのーで」まであると云うが、確かにこれなら聴いたことがある。
多分、「いっせーのーれ」もこれまでに聴いたことぐらいはあるのだろうが、勝手に僕の脳内で「せ」に変換していたのであろう。
検索してみると、やはり地域差があるらしい。
たとえばこことか、こことか。
ちなみにGoogleでひっかかる件数としては今日現在で、
「いっせーのーれ」996件
「いっせーのーせ」1350件
「いっせーのーで」754件
となっており、「せ」が若干有利だ。有利? 何に。

「いっせっせーのせ」というのもあるよね。
これはさすがに「いっせっせーので」「いっせっせーのれ」はないでしょ。
しかし、確かにぬめちさんがおっしゃるように意味的には「で」が一番納得できるような気がするのだけども。その後になにか動作が続くという意味。断定の助動詞「だ」の連用形というところでしょうか。
一方、遊び唄で「せっせっせーのよいよいよい」ちゅうのもあるから、「せ」の場合はそっちとごっちゃになりつつ広まったのかしら。

これはしかるべき所ではちゃんと研究されておる問題なのであろうか。
情報求む。

推敲

自分の書いた文章というものに対しては、常に何かもどかしいような、うまく書き表しきれていないような、不完全燃焼気味の思いがつきまとう。
何かほかにもっといい言い回しがあるのではないか、語順はこれで適当だったか、いつも気になりつつも、それを十分に吟味し直したりする手間をかけることがないまま、このように書き殴っているのが日々のことである。
つまりロクな推敲をしていないということ。
調子がいいときは、そのようなことに気を遣わぬまでも、そこそこ筋の通ったリズム良い文章を書ける時もごく稀にあるような気がするが、大半は読み返して気味の悪い思いをする。
昨日のエントリーとかも、非常にすっきりせずにさすがに少し手を入れたものの、うまく照準を合わせきれないまま書き出したのが不味かったのか、手を入れるぐらいのことでは座りの悪さは修復不可能。
戒めとしてそのまま放置することにした。
と、このようなことを書きながらも、この文章そのものもどうにもこうにも収まりがついていない。

流れるままに

もう4月だそうで、つい先頃まで新春番組の録画をじりじりと消化していた身としてみれば、いい加減にしてくれと言いたくなるほどの時の流れの速さである。
時の流れの速さと言ったところで、歳を経るにつれそのように感じるようになってきたのだろうと納得させてきたのだが、いやどうも違う。

間違いなく時間が速く流れている。

一日が、一週間が、こんなに速く過ぎ去るわけがない。
といったところで、それは自分の中に流れる時間に過ぎないということなのだろうか。
仮に時間が速く流れていたとして、それを測定するメタ時間などというものはない。

たとえば幼き頃、眠れずにまんじりともせずに過ごした夜中の1時間は、いつ果てるともなき長さに感じたものだ。
または、深夜放送を聴き初めの中学生以前、「今夜もシャララ」が終ってから「オールナイトニッポン」が始まるまでの30分が長くて長くて持ちこたえられずに寝てしまったりとか。
今などは、横向いて瞬きしてお茶でも飲んだら30分1時間などあっという間に経ってしまうように感じている。
それは、幼き頃過ごした街に大きくなってから訪れた時、スケール感がまるで違って感じられるというのと、おなじ心理的な働きなのだろうか。
いや違う、やはり実際に加速しているんじゃないかという疑念がつきまとう。
だからそれが心理的なものなんだってと云われるだろうけども。

この分では、またたく間に桜が散り、新緑が芽生え、空に鯉のぼりが舞い、日差しが強くなり、そして新しく始まったTV番組は終っていくのだろう。

恵方巻とあるある

節分である。
恵方巻という慣習がこの名古屋でも一般的になってきてから、まだ4?5年という感じである。
Wikipediaよると、セブンイレブンが初めてコンビニでの恵方巻全国販売をしたのが1998年で、続いてローソンが始めたのが2001年とのこと。
名古屋にセブンイレブンが進出したのはまだここ数年の話なので、やはり名古屋は他地域よりも一歩浸透が遅れていたのかもしれない。

どうにもいまだ違和感がつきまとう。
伝統的な慣習な筈なのに「新しい」んである。
知らぬ間に我が家でもこの2?3年、節分になると太巻きが登場している。
ウチの母親などはそういった行事系のことは一応やっておこうというタイプの人なので、いそいそとスーパーで買ってきては孫達に、ちゃんと恵方を向いて、食べてる間はしゃべっちゃダメよ、などとさも昔から自分も行ってきた習慣のように教え諭したりしているのだが、その実、こんなに大きいものを一本丸ごとは食べにくいからと、包丁で半分に切ったものを与えたりしている。
縁が切れるから包丁で切らずに丸ごと食べるのだという一方の言い伝えなどにはまるで無頓着で、そう指摘すると、だって食べにくいじゃないの、などとむくれている。
そのうち、助六みたいにぶつぶつに切られたものが皿にのって登場するのではないか、と心配するのだが、一応の型は守るタイプなので、半分に切ったぐらいの長さでマネゴトをするのが適当ぐらいに考えているようだ。

各スーパーのチラシに大々的に売り出しが報じられていたり、回転寿司屋とかでも、クリスマス時のケーキよろしく、寒風吹きすさぶ中、店頭販売したりしているのを見るにつけ、突然のように慣習化した「新しい伝統」にとまどいつつも、まあ、いつもながらのことだなあ、とも思ったり。
もう2週間も経たないうちに次の似たような、甘ーい行事が巡ってくるわけで。

『あるある大辞典』の件からまだ時期が近いせいか、こうしたことに「同じ匂い」を感じてしまったりもする。
どうも日本人は、と大風呂敷を広げてしまうのは柄にないのだが、この手の匂いに弱いようである。
というか、あの件に関しても、みんな実は「納豆でやせる」なんてことを本当に信じていたわけではなかったのかも知れないなあ。
仮に納豆を食べて痩せられなかったとして、本気で番組を訴えようなどと思った人が幾らかでもいただろうか。
軽い気持ちで御利益を求めていただけなんじゃないかね。「痩せたら儲けもん」と。
「本気で」信じてるわけじゃないけど、「なんとなく」御利益は期待する。
これが多くの日本人に共通する信仰のパターンなんじゃないかなあ。
もちろん何パーセントかの「本気で」信じてる人は存在するわけだけども。
数少ない「本気」の人だけでは、商売の旨味も少ないわけで。
「なんとなく」の人で、三が日の神社もあふれかえっているのだと思うし。

などということを、恵方を向いて太巻を口に咥えたままもやもやと思ったりしたのでした。

残念な表現

「産む機械」発言
いやこの「機械」とか「装置」とかって、「欲望する機械」とか「セクシュアリテの装置」とかのよーな〈高尚な〉表現として使ってるわけじゃあないようですなあ。
使いようによっては、ハイセンスで学術的となりうる表現も、文脈によっては単なるオッサン発言になるという例。

森高千里のファーストなんぞを突然。いやあ、ガキンチョの声ですなあまったく。面影ない、とは言わないけども。好きになったのは、ご他聞に漏れず『非実力派宣言』以降。
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